★塩田平について
塩田平の歴史の概要 |
塩田平のある小県郡(ちいさがたぐん)の歴史は古い。文字としては天平13年(741年)正倉院御物である芥子の種を入れた袋に信濃国少県郡の文字が見える@。 古事記等では、その孫建五百建命(たけいおたけのみこと)が、祟神天皇(すじんてんのう)の御代に初めて信濃国造になった、とあり皇室の先祖が九州におられたころ、その勢力下にあった阿蘇の人々の係累が、畿内に成立した統一政権と関係を持ち、早い時期に信濃国に入ってきて地方小国家を作った。阿蘇の人々が初めて塩田平に入植してきたのは安宗郷、現在の上田市古安曽であったといわれているA。かつて阿蘇の神を祭った安曽神社も現存する。 |
地形・風土 |
塩田平(長野県上田市)は、東西南の三方を山に囲まれ、北を千曲川で限った面積40平方キロメートルほどの銚子状の平坦地で、標高は430から500メートル、やや内陸型の気候で、年間降水量が1000ミリに達しない年があるなど雨が少ない。室賀川、浦野川、湯川、産川、尻無川、尾根川、駒瀬川、が平坦地を北流して千曲川へ合流しているものの、山懐が浅いため流水量が少ないA。 |
稲作の歴史の概要 |
1万年以上前の旧石器時代の遺跡が山麗地帯に何箇所か発見されており、縄文時代、弥生時代の石器土器は各地から出土している。
有史以前から相当の文化が発達していたのは、和田峠から八ヶ岳山ろくにかけて、良質な黒曜石があり、優秀な利器として全国の需要にこたえていた事に関係があると考えられている。 大和政権下では、直轄地の小県郡(ちいさあがたごおり)として栄えた。 2千年ほど前の弥生時代の石包丁が出土している事から、稲作が早くから行われたようで、神話にも、出雲を追われた建御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪へ赴く途中、塩田平の生島足島神に米粥を煮て献上したとある。 |
ため池 |
塩田平の周囲の山々から流れ出す多くの河川はいずれも小川であり、初期の幼稚な利水技術でも稲作ができとされるが、稲作の拡大にしたがって小川の水だけでは不足をきたし、灌漑が古くから行われてきた。平安時代の初期に塩田平の条里制が出来たとされ、条里制の区画に沿って手塚区に開さくされている産川の一之堰、二之堰、三之堰などは条里制の実施に伴って出来たものと考えられるので、ため池の築造もこのころから行われたとみられている。 塩田平では良質の粘土が豊富にあったこともため池築堤を容易にした。 塩田平のため池の築堤型式には、一文字型、コの字型、半円型、円型、長方形型があり、いずれも周囲の地形を巧みに利用している。築堤工事は、まず基礎工事として雑物を除き、中心堀と称して地盤の固い部分まで堀り割り、次に土井堀といって樋を伏せる部分を掘り、樋伏せが終了するといよいよ築堤が始められた。 |
舌食い池 |
舌食い池は手塚地区にあって手塚池または大池とも称し、面積は3丁歩、水深5.5メートル、貯水量157立法メートル、堤高7.5メートルで塩田平のため池のうちでは大きい部類にはいる。 築造されたのは真田時代より前となっているだけではっきりしたことはわからないが、上記のとおり平安時代の初期に塩田平の条里制が出来たころにこの池も築造されたのではないかとみられている。その後仙石時代の元和8年増築、元禄5年増築、松平時代の正徳3年土手を5尺あげる工事がされている。 現在の舌食い池は青々と水をたたえ独鈷山、女神岳を映して静かなたたずまいを見せ、 田に水を入れる時期になると、排水溝からはごうごうと水が流され、周囲の田を潤している。 |
塩田平は民話の里 |
塩田平には数多くの民話が伝えられている。 松谷みよ子の「龍の子太郎」も、小泉氏の起源神話「小泉小太郎」が基になっている。 弘法山のちがい石、前山の市神さま、龍光院の月餅水、甲田池の河童、唐糸と万寿姫、野倉のでいだらぼっち、本郷のざる水、舞田峠の送り犬、舞田峠の焼餅石、ヤマンバの木、下之郷の他田塚、生島足島神社の願文のはなし、北向き観音出現のはなし、常楽寺の鏡池、鬼女紅葉ものがたり、愛染明王の怒り、北向山の女夫杉、七久里の里,別所の出湯、湯に入った木像、大師湯の大入道、木曽義仲と葵の湯、縁むすびの美欄樹、牛と馬の競争、西行の戻り橋、すばこの神様、など |
参考文献 |
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