月様のモデルは、武市半平太といわれている

武市半平太

 武市半平太(号瑞山)は、文政12年(1829)土佐長岡郡仁井田郷吹井に生まれた。領知高51石余りの白札郷士(郷士中の最上位)である。このことは、上士、下士の差別が厳しかった土佐で、下士層有志を団結させ、彼を勤皇党党主として仰がせる条件となっただけでなく、思想と行動の上に大きな影響を及ぼし、藩当局との交渉においても有利な条件となったのである。
 坂本竜馬と中岡慎太郎が、京都の近江屋で刺客の難にあった時、遭難の現場に駆けつけた田中光顕(後の宮内大臣)は、晩年に「の各先生を、友達として、お互いにどう呼びましたか。」という問いに対して次のように言っている。
「坂本竜馬、中岡慎太郎、武市半平太など、一死君国のため脱藩した志士たちは、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使った。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。もっとも武市瑞山先生は別。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。
 今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といった。」さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していた。とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった。
 嘉永2年(1849)8月、父の半右衛門が病死し、次いで母も死去し、祖母が残された。半平太は11月、家督を継いだが、祖母扶養の責任を果たすため、12月に富と結婚した。富は、貞節をもって聞こえ、半平太また至誠の人であった。

「維新土佐勤皇史」
「身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。 いわゆる押し出しが立派で、美男で、言説もさわやかで、人柄も優れている、ときているから、接する者はほとんど皆、彼に敬服した。
 領袖と仰ぐ土佐勤皇党の同志たちは無論のこと、長州の久坂玄瑞その他他藩の者たちも、面識を得るやたちまち半平太に傾倒した。 倣岸をもって聞こえた土佐藩主山内容堂ですら、彼に対しては、威儀を正したというのである。
 武市半平太は、剣の腕もいい。25歳の頃から、高知城下で一刀流の道場を開き、江戸では鏡心明智流の桃井道場の塾頭をつとめた。教養もある。叔父が、「万葉集古義」の著者として著名な国学者、歌人の鹿持雅澄で、その薫陶を受けている。風雅のわきまえもある。詩歌をたしなみ、美人画にも巧みだった。指導者の資格は十分備わっていた。
 品行も方正という以上に、自己に厳しく、また周囲の者にもそれを求め、潔癖、律儀、悪く言えば、融通の利かない頑固な気質が彼の心棒になっていた。
 桃井道場の塾頭の頃、塾生の中に酒色にふけり、女色を追って外泊する不心得者があったが、半平太は自ら模範を示し、至誠を持って、不品行を説諭したので、弊風は改まり、塾生の技量も上達した。桃井は、半平太の人物を高く評価し、その努力に感謝したという。
 人の適性をよく見抜いて適所に用いる眼も半平太にあった。 岡田以蔵を育て、この剣鬼を繰って、京都に天誅の嵐を巻き起こし、やがて使い物にならなくなると、非情に以蔵との関わりを断ったのも彼である。
 以上のような半平太の性格に加えて、彼は熱狂的な天皇崇拝者だったといわれている。
 半平太は、時勢に遅れた土佐の藩論を刷新し、「一藩勤王」を願ったが、思うに任せなかった。容堂は、勤王党の行動を苦々しく思い、しかも藩政は、容堂の厚い信頼を得ている吉田東洋が握っていたのである。 半平太は、藩の監察府や東洋に藩論を公武合体から尊王攘夷に転換し、一藩統一のもとに勤王運動に挺身すべく熱心に説いたが、一笑されただけであった。
 文久2年4月、遂に半平太は、「一藩勤王」の夢を実現すべく那須信吾ほか3名の同志に指令し、藩を牛耳る吉田東洋を暗殺させた。それによって、藩上層部の骨組みが一変され、半平太らは、藩主を擁して東上の途につくことができた。 京都にあって、公卿と交際する一方、いよいよ勤王運動の実を挙げるべく画策行動する。邪魔になる佐幕有力者が、次々に「斬奸」されるのは、この時期である。以蔵や新兵衛を活躍させて、半平太は、表面何食わぬ顔をしている。
 すべての狂挙は、勤王の至情に繋がる限り許される。「天皇気狂い」とあだ名される、直線的な純粋志向が彼にはあったのである。

 10月には、勅使三条実美、姉小路公知の護衛を命じられ、薩長とともに勤王三藩の名をほしいままにしていたが、土佐勤王党の台頭を不快とする山内容堂は、そのとき早くも弾圧の鉄槌を振り下ろ 文久3年6月、半平太の左右の腕ともいえる同志、平井収二郎、間崎哲馬が切腹を命ぜられる。藩政改革のために、密かに青蓮院宮の令旨を得ようとした一件によって、彼らは罰せられた。
 久坂玄瑞は、しきりに半平太に脱藩を勧めた。長州に逃げて来いといった。
 だが、半平太は、それを頑固に拒んだ。俺は正しいことをしてきた。何の逃げ隠れすることがあ それが、この男の信条だった。 逃げるどころか、かえってしつこく、容堂の前に藩政改革意見書を差し出す。 8月18日の政変のあった翌日、半平太は、高知城下帯屋町の獄舎に投じられた。同時に、大半の在国同志が投獄され、土佐勤王党は壊滅したのである。
 獄舎から妻宛てに出した多くの手紙は、政治的行動者として見せなかった性格の裏面をつぶさに語っていて面白い。酒豪の多かった勤王志士の中では、珍しく酒が苦手で、甘党の煙草のみだったこともわかる。
 下痢が続き、衰弱し、吟味場へも役人に抱えてもらわなければ出られないほどになると、半平太は、たらいに張った水に我が顔を映し、差入れの紙筆墨で自画像を描き、次の詩をそれに添えた。

 遺言に等しいが、   「花は清香に依って愛せられ、
            人は仁義を以って栄ゆ。
            幽囚、何ぞ恥ずべき、
            只赤心の明らかなるあり。」
   
 と精一杯胸を張っている。
 そして、次のような手紙を添えて妻に送った。
 「‥‥さて、自分絵をかき候ところ、ちとちと男ぶりが好すぎて、ひとりおかしく候。鏡で見てみると、ますます痩せて、口ひげは伸び、頬は角が出て誠にやつれ申し候。されど、心は大丈夫にて候まま、こればかりはお気遣いつかわれまじく存じまいらせ候。‥‥」慶応元年5月、遂に切腹の断罪が下り、三つ文字に腹かき切って果てた。満36歳であった。

参考・引用文献
明治維新百人(別冊太陽)平凡社 /隠された維新史(早乙女貢)廣済堂/歴史と人物・中央公論社/歴史と旅・秋田書店